LAで夢を追い、NYで揉まれ、またLAへ:私のアメリカ生活25年のストーリー【第3話】

このブログは、アラフィフ、アメリカ企業でアパレルグラフィックデザイナーとして働いている私のこれまでの経歴、アメリカ移住・結婚・離婚・再出発について綴る全6話の連載です

🔗【第1話】私がLAに移住を決めた理由  →(こちら

🔗【第2話】大学卒業後、夢と不安を抱えてLAへ →(こちら)  

▶️【第3話】LAでの10年 →(このページ)    

🔗【第4話】NYへ引っ越し、仕事と結婚そして離婚 →(こちら)  

🔗【第5話】再びLAへ →(こちら)  

🔗【最終話】人生を変えたいあなたへ →(こちら

【第3話】LAでの10年〜 仕事・ビザ問題・恋愛・挑戦の日々


初めての仕事と、アメリカで働くということ

LAのデザイン学校を無事卒業。けれど、すぐに仕事が見つかるわけではありませんでした。
アメリカでの就労にはビザの問題が常に付きまといます。
まずは、OPT(大学や短大卒業した学生ビサ所持者が最長1年間、専攻分野に関連する職務でアメリカの企業で働くことを許可される制度)を利用してインターンシップで仕事の経験を積もうと思いましたが、なかなかインターンシップを受け入れていくれる会社も少なく苦戦。

当時はネットで仕事を探すのではなく、新聞などの紙媒体の広告で仕事を探したりが主流でした。
私の場合は、イエローページ(日本でいうタウンページ、企業やビジネスの電話番号が載っている分厚い電話帳)のデザインオフィスや広告業の欄にリストされている会社を上から順に電話をかけて、『なんでもやるのでインターンとして雇ってくれないか?』と聞いてまわりました。今考えるとかなり勇気のある行動!それほど仕事をゲットしたいと必死な私でした。

それを続けて、やっと一件日本人オーナーの企業向けギフトを請け負う小さな会社でインターン(無償)をさせてもらうことに。今考えると、ただの”使いパシリ”でしたが、仕事経験なし、労働ビザなしの私の立場では仕方ないことでした。
しばらくこのインターンを続けながら、その間も根気よく仕事探しを続け、知り合いの紹介などを経て、数件会社に面接に行きましたが、とにかく外国人だという事、仕事経験がないという事で良い返事を頂けず、落ち込み、焦る日々でした。アメリカで働くということが難しいということは覚悟はしていたものの、思った以上に厳しい状況で、自分の英語の会話力のなさ、デザインの経験の無さを目の当たりにしました。

そんな中、叔母の紹介で小さなデザインオフィスで有給インターンとして雇ってもらえることになり少し良い方向へ状況が向かい始めました。オーナー2人とジュニアデザイナー1人の小さな会社でしたが、ここで私はデザイナーとして沢山のことを教えてもらい、やっとグラフィックデザイナーとしてアメリカでキャリアをスタートさせることができました。
初めは電話を取ったり、会社の過去の作品をアーカイブしたり、もちろんすぐにはデザインの仕事はさせてもらえませんでした。それでも英語で電話の取り方に慣れてきたり(最初は全く相手の言っていることが理解できずパニック)、会社でのコミニケーションの取り方を学んだり、とにかく全てが初めてで新鮮な日々でした。
会社に慣れてきた頃、少しずつデザインの仕事もやらせてもらえるように。ボスのアシストをしながら、徐々にクライアントの仕事も一人で任せてもらえるようになり、これはすごく嬉しかった!この頃から自分のやっていることに自信を持ち、仕事にやりがいを感じ始めました。

ビザの問題とお金の問題

無事インターンで働けるようになって、OPTが切れる期限が迫ってきました。どうにかこのままアメリカで今の仕事を続けるためには労働ビザに切り替えなければアメリカでは働いて暮らせません。どーしよう。いろんな人に相談し、結果、移民弁護士に相談しに行きました。私の場合、日本での4大卒の学位があるので、それを使ってH1-Bというビザを取れることに。やはり持っとくべきは大卒資格!?(私はこの時初めて日本の大学を出ておいて良かった心の底から思いました。)その後無事にH1-Bに切り替えることができ、先3年は一安心して仕事ができるように。
今では、労働ビザの資格があっても取得するのが難しいですよね。当時でも結構時間も費用もかかって嫌な思いをしたけれど、ビザが取れただけ本当に当時の私はラッキーでした。
アメリカで暮らしていく上で、腕の良い移民弁護士探しとビザ取得は大切で避けて通れない大きな問題です🔥

しかしビザ問題は解決したものの、最低賃金の時間給で働いていた私は、デザインの仕事だけでは生活費が捻出できずギリギリ経済状態。少しでも生活費の足しにしようと、ベビーシッターをしたり、グラフィックのスキルを使って、ポストカードやフライヤーなどを作ったりお小遣い稼ぎをしていました。

ぶっちゃけると、お金の管理が上手でない私は、銀行の残高がゼロの時もありました!給料日までに支払わなければいけない光熱費を抽出するため、人生初、持っている貴金属を売りに質屋(アメリカではpawn shopと言います。今でもその店舗があった場所を通ると当時のことを思い出しゾッとします😅)へ行ったこともあります😭 どうしてもピンチな時は、恥ずかしながら親にお金を送金してもらったこともありました。(ありがとう両親🙏)
流石にこの時は、20代半ばにもなって自分で何やってるんだろうとも思ったり、日本にいる同級生たちは着実に社会人として生活して、中には結婚出産もしている友人もいたりして、一体アメリカで楽ではない生活状態で、私は何を目指しているのだろうとも多々思ったりもしましたよ。(しかし、一時的凹むもののすぐ忘れる私。意外と先の心配は深刻にしてなかったような。いいな〜20代。)

そんな生活をしていた頃、クライアントであるアパレル会社がビジネス拡大するのでぜひ正社員で働いて欲しいと仕事のオファーを頂きました。しかも私のビザ状況も知っていてくれたため、ビザのスポンサーも付いての仕事オファー。これはとてもラッキーな条件です。ですが、クライアントを奪って会社を退社する形になるので、ボスには非常に悪い気がしてすぐには決断できませんでした。しかし、これはまたと無いチャンス!ボスに暴言を吐かれることを承知で新しい仕事を受けることに決めました。今まで育ててもらった感謝とキャリアを積み上げて行くための決断だということを正直に話したので、ボスは意外にも快く送り出してくれました。


新しく働き始めた会社は、以前より規模が大きかったので、健康保険や、有給などきちんと福利厚生があり、晴れてデザインの仕事のみで生活することができるようになりました。やっとアメリカで“一人前”に成れた様な気がして、一つのゴールを達成できてとても嬉しかった🙌🏻 頑張ってきてよかった!

アメリカに移住すると決めた時から、中途半端で暮らしたいと思わなかった私。時間はかかっても、きちんと仕事を持って、自分で生活費が払えて、健康保険や年金などの最低限のベネフィットをきちんともらえて“アメリカで暮らしている”と言えると思っていました。自由の効かない、やりたいことができない状況でアメリカに居るのなら、日本へ帰国した方が暮らしのクオリティーは良いし精神的にも全然良いだろうと思ってたからです。無理してアメリカに居る必要はない。

恋愛:外国人ボーイフレンドとLAデートシーン

アメリカへ来てからの私のプライベートはというと、LAへ来て早々、叔母の友人のアイルランド人とお付き合いをするようになりました。叔母は、早くLA生活に慣れてほしいと思ったのか、私と歳が近い人たちを紹介してくれ、その中で出会ったのが彼です。彼は社交性がとてもあって、毎週末LAのいろんな場所を案内してくれたり、友人のホームパーティーへ連れていってくれたり、“LA生活の流儀”みたいな物を教えてくれました。LAライフにすぐに馴染めたのは彼のおかげです。
そんな彼とは4〜5年ぐらい付き合ったでしょうか。彼が母国へ帰るということでやむなくお別れしました。お別れした理由がそうだったので、今でもたまに連絡し合う古い友人のような関係です。

彼とお別れした後は、初めてシングルとしてのLA生活。どうやって出会いを見つけるのか初めての経験。当時はスマートフォンもなければマッチングアプリもない、実際外に出て出会うしかありません。友人のパーティーがあればもちろん参加、週末はバーやクラブへ遊びに行くのが当たり前でした。20代の女子だったので、そこそこ声をかけてもらえたり、デートする相手は数人いましたが、なかなかオフィシャルにボーイフレンドとなる人は現れませんでした。
アメリカではお互いが正式に他の人とはデートはしませんと認めない限り、正式なボーイフレンドやガールフレンドとは言えません。よって食事に行ったり、お泊まりする関係であっても、他にデートしている相手がいるかもしれないので気をつけなければないません!この正式お付き合いトークをするまでが本当に面倒でややこしい。お試しして、最終的に正式に付き合うか決めるという合理的なシステムで日本とは少し違うところですよね。
すぐにお付き合いしたいと言ってくる男性もいますが、LAやNYなどのルックスが良い人が多い大都市ではなかなか正式お付き合いトークをする、特に男性が少ないのです。なので、アメリカではLAとNYは女性には厳しいデートシーンと言われます。

その後、かなり年上のアメリカ人彼氏(離婚歴あり、子供あり、年齢差ギャップで上手くいかず)、同年代のアメリカ人彼氏(100%好きになれなかった)を経て、仕事で出会ったカメラマンのアメリカ人の彼、のちに結婚する彼と出会いました。半分ラテンの血が入っている彼は、陽気でオープンマインドで人を惹きつけるカリスマ性があって、当時の私にはとても魅力的に思えたのでした。

大きな転機:NYへ転勤のオファー

仕事も、プライベートも軌道に乗ってきた30代前半。リーマンショックが起きて多くの企業が規模縮小をし、私が働いていた会社(本社がNYにあり、私が勤めていた部署はLAにあった)でも、LAオフィスを閉めるという決断を下されました。NYに引っ越してくるならそのまま仕事を継続しても良いというオファーをもらいましたが、付き合っている彼も友人も全てLAがベースの私。他の都市へ引っ越すなんて考えられません。けれど仕事を失うとビザも失うのでアメリカに残れるかも保証もない。また。大きな選択をする壁にぶち当たることに!

家族から友人、ありとあらゆる知人に意見を聞きました。かなりの時間を経て答えを出した結果、NYへ引っ越すことに。決め手は、「NYなんて住みたくても住めないよ!」「嫌ならいつでも帰ってくれば良い」という多くの人の意見と、当時付き合ってた彼が一緒に引っ越すことにしてくれたので、NY行きを決めました。

次回予告 ▶️【第4話】NYへ引っ越し、仕事と結婚そして離婚
→ NY生活に馴染むまでの苦労やジェットコースターのような激しい人生の変化をNYで経験した日々を綴ります。

You may also like

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *